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水彩画教室のレッスンをそのまま自宅で、しかも筆の動かし方を何度でも確認できる。

誰もが息を呑む。
手で触れそうなほどの存在感を放つ絵を、
自分の手で描いてみる。

四十年ほど前に大学に入って超常現象の研究を始めたとき、
スプーン曲げが流行っていました。

そこでわれわれもスプーン曲げを毎日のようにやりました。
私自身もこれまでに千本ぐらい曲げてきましたが、それくらいやると、
ちょっとした傾向のようなものがわかってきます。

たとえば、身体を東西に向けるよりも、南北に向けてるほうが曲がりやすい。
南より北に向いてるほうが曲がりやすいと分かってきました。

興味が湧いて礼文島とか稚内とか北のほうでスプーンを曲げたらどうかと思って実行してみると、
北のほうが曲がりやすいことがわかった。
南のほうが曲がりにくい。

さらに景色の良し悪しも関係していた。
美しい風景の中で曲げようとすると、
とてもよく曲がる。
しかし、バス停近くなどの排気ガスを浴びるなかで曲げようとすると、
曲がりにくい。

では南の美しい風景の、
たとえば阿蘇の草千里と、
排気ガスが充満している札幌のバス停近くの場所では、
どちらが方が曲がりやすいか。
やってみたら、阿蘇の草千里の方が曲がりやすかった。

不快な風景の中だと、北でも、曲がりにくい。
南でも、、心地よい風景なら、
とても曲がりやすいことがわかった。

つまり実験を重ねると、
曲がり方にはある領向があることがわかった。

そうなると、傾向だけではなく、
「絶対にこうである」という条件がわかりたくなるものです。

するとわかったことがひとつありました。
何がわかったか。

イライラしていると、曲がらない。
穏やかで、にこやかで、リラックスして、
楽くて、幸せだという気持ちのときに曲げようとすると、
たいヘんよく曲がる、という事実です。

これは大きな発見です。超能力とはリラックスなのです。
超能力とは喜びなのです。超能力とは幸せ感である、とわかりました。

スプーンは、曲げるぞと息ばった瞬間から、曲がらなくなる。

二十人の人がスプーンを曲げるとして、
十八人目の人までは次から次へ曲がったのに、
十九番目と二十番目の人は曲がらない。

なぜか。
「自分だけ曲がらないのは、いやだ。
なんとしてでも曲げるぞ」と思ってしまうからです。
そう思った瞬間から、曲がらなくなる。

根性を人れた瞬間から、曲がらなくなる。
気合いを込めて、やる気になることによって、
結局、超能力的な力はピタツと閉ざされるのです。

超能力とは、リラックスして、楽しんで、幸せで、という状態で生まれます。

その中でも、ものすごく大きな力を持っているのが、「ありがとう」という感謝の心です。

リラツクスして、楽しんで、喜んで、感謝するという状態でものごとに対すれば、
どうやら人間の脳と宇宙とがつながるらしいのです。
”宇宙”は”神”と置き換えてもいいと思います。

実は「気合と根性で生きる」生き方は、
自分の秘められた能力を使わない生き方なのです。

自分の超能力を使うために絶対必要なことは、
気合と根性を入れないこと。

別の言葉で言うと
「淡々と生きる」ことです。

「なんとかするぞ」と思った瞬間から、
なんともならなくなってしまいます。
引用元
「淡々と生きる」

「絵を描くことが楽しくなる」と生徒に好評の絵画教室!
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絵心ゼロでもいきなり上手に描ける?プロ画家の筆の動かし方を何度でも観察できる。

単に「上手な描き方を知らない」だけなのです。
これを知れば、きっとあなたも思い通りの絵を描けるようになるでしょう。

私は普通の人より手品とか奇術については詳しい。
だからこれは奇術だ、マジックだと言えるのです。

ただ、奇術やマジツクに詳しい人は
絶対に種明かしをしてはいけないというルールがあるので、
種明かしは基本的にしません。

久村さんが見せてくれるなかには、
マジツクでできるものありますが、
どう考えてもマジツクにはなり得ない、
マジックでは絶対無理だというのがいくつかあります。

たとえばこういうものがあります。
カウンターに座った五人の真ん中あたりの人に、
久村さんがトランプを一組渡し、
「好きなカードを五枚並べてください」と言います。
お客が「内側を見てもいいか」と尋ねると、
「もちろん見てもいいですよ」と答えます。
お客にはどんなカードかがわかってる。
久村さんにはわからない。
そういう状態です。

久村さんはお客が並べた五枚のカードをじーっと見ながら、
もう一組のトランプを取り出し、
裏返しで自分の前に五枚並べます。

その上で、こんなことを言います。
「今、五枚並べましたよね。
今から好きなように並べ替えてもいいです」

すると客は、一枚目のカードと五枚目を入れ替えたり、
二枚目と四枚目を並ベ替えたりします。

それに対して久村さんのほう
のカードはー切替えません。

「いいですか、それで?」
「いいです」
「じや、開けますよ」と久村さんが言った瞬間、
「あ、もう一回やります」など
というお客がいます。
久村さんが「いいですよ」と言うと、
二枚目と五枚目を入れ替えたりします。

そうしたやりとりのあとで、久村さんが開けます。
その開けた五枚とお客が並べた五枚がー緒なのです。順番も同じ。
すると五枚並ベたお客が、
「ああ、並ベ替えなきやよかった」
と、決まって同じセリフを口にします。

私は初めて見たときに、
これは奇術かマジツクかと疑いました。

次に行ったとき、私は久村さんの手元の五枚だけを見ていました。
久村さんがカードに手を触れるのかどうかに関心があったからです。
しかし久村さんは机の上に五枚並ベたきり、
まったくカードに手を触れませんでした。

そのときも最後に、
「じや、開けますよ」
「あ、ちよっと待ってください。もうー回やります」
となって、お客がーと四の順序を入れ替えた。

ところがカードを開くと
カードの中味と並びがー緒なのです。

久村さんは開けたときの絵を見ていただけです。
つまり、取り替えた瞬問に、その一と四が合ってしまった。

取り替えなければ
一と四が違っていたのに、
取り替えた結果として、
久村さんが並べたとおりになってしまったのです。

何回やっても同じです。
久村さんは開けたときの絵を見ているだけで、
そのとおりに並べてみせます。

「じゃ、じたばたしても仕方がないわけですか」
と私に聞いた人がいますが、
じたばたしたからそうなったのか、
じたばたしなくてもそうなったのかは
神のみぞ知るなのです。

私が五人の真ん中に座ったことがあって、
そのときは私はカードを裏返しのまま切って、
絵柄を見ずに自分の前に五枚並べました。
久村さんはそれをじっと見ながら、同じように五枚並べ
「どうぞ入れ替えてください。
好きなようにいじくってください」と言いました。

私は、「入れ替えません」と言いました。
自分が何のカードを並ベたのか知らないのですから、
入れ替えようが入れ替えまいが、
まるで関係ありません。
人れ替えても意味はないのです。

「本当にいいんですか」
「いいですよ」
「じゃ、開けますよ」
で、そのまま開けました。

五枚とも、順序も絵柄も同じでした。

私が久村さんを知ったのは、
三十年前に旅先である男性に会ったことがきっかけでした。

男性は自分の腕時計を私に見せ、こう言いました。
この腕時計のガラスにひびが二、三本入っていた。
このひびを、ある喫茶店のマスクーが指先でツツツツとやると、
ひびがなくなってしまうという話を聞いた。

その嚀を聞いて時計を持って行き、
「これ、直してください」とお願いした。
指先でツツツツとやるとひびが消えた。
完全にきれいなガラスになった。

「それがこれです」と時計を見せてくれました。
その男性は、ウそをつくような男ではありません。
へえ、すごい人がいるのだなと、
それが久村さんを知った最初でした。

それから三十年。
その間に五、六回は行きましたが、
いちばんおもしろかったのは、その五枚のカードです。

このトランプの話は、
結局、開けたときの絵を見れば、その結果は、同じだったということです。

多くの人のように並ベ替えて並ベ替えて、
どんなに入れ替えても結果は同じ。
私のように絵柄を見ないでー回も入れ替えなくても結果は同じ。

じたばたしてもしなくても結果は同じだったということです。

それがわかると、
人生もそういうことになっているのではないか、と気づきます。
人の運命もそうなっている、
決まっているのではないか。

そうであれば、人生、じたばたしてもいいけど、
じたばたしない選択をしても結果は同じ、
ということになります。
引用元
「淡々と生きる」

誰もが息を呑む。
手で触れそうなほどの存在感を放つ絵を、
自分の手で描いてみる。

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