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刑務所出所者、前科者を助ける一覧。刑務所出所者、前科者に必要な情報一覧。

ボーダークラブ。
⇒https://www.uuooy.xyz/kitui/forums/topic/keiziban-30/

ボーダークラブ。相談室。
⇒https://www.uuooy.xyz/kitui/forums/topic/keiziban-31/

           

           

生活困窮者が自力で生き延びる活動です。

生活困窮者(路上であった人、炊き出しに来た人、連絡が取れた人)に もれなく伝えてください。
・↓↓これをスマホに入れさせる。
https://www.ka2.link/taiken/giron/#.6

・ストリートディベートを実演してみせる。
・ストリートディベートを体験させる(見守る)。

・これを本業にして続けてもいいし
・ホームレスに指導して仲間を増やしていく活動をしていくのもいい。
・やりたい仕事にたどり着くまでのつなぎでもいい。
↓↓ストリートディベーダー。
https://www.ka2.link/taiken/giron/#i.

↓↓人見知りでそんなことできないって人は憎しみと同情の使い分けを理解する。
https://www.ka2.link/taiken/giron/#l..

           

           

↓↓男はなぜ「あさま山荘」に立てこもったのか 元連合赤軍幹部・吉野雅邦のたどった道。

↓↓あさま山荘事件 “獄中”50年 無期懲役囚を揺さぶった裁判長の言葉。

↓↓刑務所 出所者支援 一覧。

↓↓ストリートディベート普及活動。

↓↓・まず初めに手に入れたいもの。

↓↓・炊き出し情報一覧。

↓↓・フードバンク。

↓↓・子ども食堂。

↓↓・DV(ドメスティックバイオレンス)シェルター。

↓↓・住居。

↓↓・相談窓口。

↓↓・支援団体の一覧。

↓↓・行動 一覧。

           

           

ストリートディベート でやってること。
⇒https://www.ka2.link/dansu/kunren-29/

いじめられちゃうのは憎しみを使わないから。
⇒https://www.uuooy.xyz/kitui/hyouhyou-2/#2.
 
イエス  ノー  どっち?
あなたの意見を聞かせてください。

怒り、憎しみは快感だ。手軽な娯楽だ。
⇒https://www.uuooy.xyz/kitui/hyouhyou-2/#.0.

イエス  ノー  どっち?
あなたの意見を聞かせてください。

鬱やひきこもりになっちゃうのは怒り、憎しみを使わないからだ。
⇒https://www.uuooy.xyz/kitui/hyouhyou-2/#0.
 
イエス  ノー  どっち?
あなたの意見を聞かせてください。

憎しみをちゃんと使えてないのが勇気で
行動力って憎しみのことだ。
⇒https://www.uuooy.xyz/kitui/hyouhyou-2/#.0.0.

イエス  ノー  どっち?
あなたの意見を聞かせてください。


↓↓苦しみに耐えられないのは かわいそうを探さないからだ。 

イエス  ノー  どっち?
↓↓あなたの意見を聞かせてください。

           

           

飄々主義を理解しているあなたに提案があります。
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刑務所出所者をみんなで支援する社会づくり担当オーガナイザー(組織者・主催者・まとめ役)をやってみませんか?

・みんなが仕事する目的の1項目が 刑務所出所者を支援する。という認識になってる社会にする。

刑務所出所者をみんなで支援する社会づくり担当オーガナイザー(組織者・主催者・まとめ役)募集。 

何をやるかの例。

・チームで話し合う掲示板。連絡SNSを立ち上げる。
⇒https://www.uuooy.xyz/kitui/forums/topic/keiziban-29/

・デジタルでつながれる支援を活用する。
⇒https://www.nhk.or.jp/shutoken/wr/20220128a.html

・活動員を集める(プロボノを活用する)。
⇒https://www.servicegrant.or.jp/probono/

・「協同労働」に協力してもらう。
⇒https://jwcu.coop/about/assoc_cooperative/

⇒立ち上げプロセス一覧。

・活動内容、手順を具体化。(SNSでメッセージ、支援呼び掛け、活動報告)。

↓↓ストリートディベート

↓↓ストリートディベーダー。

・「ライブディベート」「掲示板ディベート」の投げ銭やアフィリエイトは自分がやるときがあったら協力してもらうのでお互い様でに協力する世の中にする。

「ライブディベート」
⇒https://live.line.me/channels/13399334

「掲示板ディベート」
⇒https://www.uuooy.xyz/kitui/forums/topic/keiziban-29/

・クラウドファンディングを活用する。
⇒https://camp-fire.jp/readyfor

↓↓・ほかの支援団体と同盟する(場合によってはそっちの組織に組み込まれてもいい)。

           

           


⇒2022年2月21日。AM10時半くらい。
中野駅から上行って区役所へ向かう道でストリートディベート&路上ライブ(ラインライブ)。

⇒2022年2月21日。AM11時くらい。
中野ブロードウエイを出た早稲田通りの歩道でストリートディベート&路上ライブ。
と中野ブロードウエイでストリートディベート呼びこみ(ラインライブ)。
クリック出来ます。
・右手に持ったスマホでライブ配信(LINE LIVE)。
・左手に「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」の歌詞書いた紙。
・腹に
「いじめられちゃうのは憎しみを使わないからだ。
イエス                 ノー」
と書いた紙(議論の提案)をクリップで止めとく。
・イエスの先の地面にイエスと書いた紙を張った皿(お金恵んでもらう)。
・ノーの先の地面にノーと書いた紙を張った皿(お金恵んでもらう)。

ストリートディベート一覧。
⇒https://www.ka2.link/dansu/kunren-29/#.%20.

↓↓実証実験中。その1.
https://www.ka2.link/dansu/kunren-29/

↓↓実証実験中。その2.
https://rreey.xyz/suki/giron/

           

           

           


・人間は優しくなるように作られた。
・同情は最も強い人間の本能の一つである。

ダーウィンは、共感や同情こそが人間が持っている一番有能な素質だと考えていました。

ストリートディベートをやる、普及するという行動を利用して
憎しみと同情の使い分けを理解し合うのが
救世主の仕事です。

           

 
↓↓刑務所 出所者支援 一覧。

性差別に苦しむ人を助ける一覧。性差別に苦しむ人に必要な情報一覧。
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いじめに苦しむ人を助ける一覧。いじめに苦しむ人に必要な情報一覧。
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性被害者を助ける一覧。性被害者に必要な情報一覧。
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男はなぜ「あさま山荘」に立てこもったのか 元連合赤軍幹部・吉野雅邦のたどった道。

「まーちゃん、早く出てきてちょうだい、お願いよ。こんなことしちゃって」

           

母親は真冬の山荘に籠城する息子に対し呼びかけ続けた。

かえってきたのは、むなしく響く銃声だけ。

ただ、弾を放った息子は山荘内で目を潤ませていたという。

彼の名は、吉野雅邦(当時23歳)。

1972年2月に起きた「あさま山荘事件」の実行犯の1人だ。

           

なぜ吉野は、あさま山荘に籠もり、警察と、そして自らの家族とも対峙しなければならなかったのか―

未公開の手記や手紙、裁判記録、そして彼を取り巻く人々の証言から、「あさま山荘事件」にいたるまでの行動と心の軌跡をたどる。

           

あさま山荘事件と吉野雅邦

1972年2月19日、過激派組織「連合赤軍」のメンバー5人が軽井沢の「あさま山荘」に押し入り、管理人の妻を人質に立てこもった。

10日後、朝から始まった警察の制圧作戦に、犯人側もライフルや拳銃で応戦し、機動隊員2人が殉職した。

           

午後6時過ぎ、機動隊が山荘に突入して犯人全員を逮捕し、人質を救出した。

この事件の捜査の中で、連合赤軍は別の山岳アジトで仲間に対するリンチ事件をおこし、多くの人命を奪っていたことが明らかになった。

事件の実行犯だった元幹部の1人・吉野雅邦は逮捕され、裁判では無期懲役の判決を受けた。

           

恋人とも出会い… “何不自由ない生活”がなぜ

「生育環境や人間関係を見れば、彼は恵まれていた。けれど、『幸せであることの居心地の悪さ』とでも言うんでしょうか、時代の中でそのような感覚があったようなのです」

こう語るのは、吉野の親友で小中学校の同級生だった大泉康雄さん(73)。当時から現在に至るまで、60年近く手紙のやりとりを重ね、友の姿を見てきた。

出版社に勤めるかたわら、吉野の半生を記録した本を出版し、親友がなぜあの事件に突き進んだのかを知ろうとしてきた。

           

吉野雅邦は1948年3月、裕福な家庭の次男として生まれた。

父は東大法学部出身で大企業の重役。同じく大正生まれの母は、目立った反抗期もなかったという息子にたっぷりと愛情を注いだ。

大泉さんによると、吉野は小中学校では“優等生”だが誰でも分け隔てなく接した。「学級委員」に選ばれクラスでの人気も高かったという。一緒に学級新聞を作り、大泉さんが編集長を担い、吉野が記事を書いていた。

           

成績優秀だった吉野は都立高校に進学。3年間合唱部に所属し活動に打ち込んだ。大泉さんと学校は別々になったが、一緒に旅行に出かけるなど交流は続いた。

吉野は東大受験に失敗して一浪したのち、1967年に横浜国立大学に進学。大学でも混声合唱団に入部し、そこで生涯を誓い合う相手、金子みちよさんと出会う。同学年で年も同じみちよさん。合唱団の新入生歓迎コンパで出会った彼女に一目ぼれだった。

           

吉野が長い人生の中で最も嬉しかった瞬間は、みちよさんからのデートの誘いだったという。

1年生の夏休みのデート。白い縁取りをしたレモンイエローのノースリーブのワンピースに身を包み、肩まであった髪をバッサリと切ったみちよさんの姿に目を奪われた。物怖じすることなく、自分の意見をはっきり述べる姿に魅力を感じていた。

           

親友・大泉康雄さん:

「電話でしょっちゅう『こういうアタックをした』とか話していました。“最高の女性だ”と言っていましたね。私にも紹介してくれて、一緒に話をすることもありました。そのうち結婚して幸せになるだろうと思っていましたね」

           

「幸せであることに居心地の悪さ」

家庭的にも経済的にも恵まれ、恋人もできた吉野。“幸せ”そのものにも見えたというが、その生い立ちにある負い目を感じていた。

彼の兄は生まれたときに脳に障害があり、知的障害者向けの施設に入所。吉野は中学生の時から大学のこの頃まで、毎週のように施設に通っていて、兄は誰よりも弟が来ると喜んだ。しかし、吉野は自分が障害なく生きていることに罪悪感を覚えていた。

自己肯定感が希薄で、生き方に迷っていた。

高校生の頃には夏目漱石の『こころ』に影響され、自殺を高尚なものと見なしたり、『人間魚雷回天』という映画を見て戦時中の特攻隊員の勇敢さに憧れたりした。

           

大学1年生の夏休みが明ける頃には状況が一変する。

世界中でベトナム戦争への反戦運動の気運が高まると、学生運動は徐々にエスカレート。大学に入学した1967年、時の佐藤栄作総理大臣の南ベトナムなどへの訪問阻止を目的とした“第一次羽田闘争”が起きた。

ベトナム戦争の影響で利益を得る企業に批判の声が上がると、吉野は自らの出自をも疑うようになる。

           

「死の商人だ」

それまで財閥系の企業の重役として働く父に誇りに感じていた思いが反転。「父に養われてきた自分は、アジアの人民の血と命を踏みにじって生きてきた存在」ではないかと自らに嫌悪感を抱くようになる。

父の勤める会社を「死の商人」となじる言葉が、吉野の生きる立場を足下から揺さぶった。

           

そんなとき、吉野は社会主義革命の思想と出会う。大泉さんに宛てた手紙には、革命思想に“目覚めた”ばかりの様子が記述されている。

           

“もう俺の生きる道はここだと言うほどの共感を与えた。ピッタリくるという感じ。心の空洞を、なんの抵抗もなしに埋めてくれるもの。そんなふうに入り込んできた。(中略)俺の求めているものは、社会主義社会建設であり、そのための革命である”

           

吉野は「遺書」を書いて決死の覚悟で羽田闘争に向かい、機動隊との攻防の中で頭を13針縫う重傷を負った。これ以降、吉野は当時の他の多くの学生と同様に、機動隊と衝突する闘争に加わったり、デモに参加し逮捕されたりを繰り返す。

みちよさんは向こう見ずな吉野を心配しながら行動を共にする機会が増えていく。一方、別の大学に通っていた大泉さんとは、やりとりする機会は減っていた。

           

親友・大泉康雄さん:

「当時は、そんなにわからなかったのですが、後で裁判記録を読むと、こんなにまで自分を追い詰めていたのかと、ひしひしと感じましたね。今よりましな社会に変えようと、突き進んでいたのが当時の状況だったんじゃないかと」

           

世界を“本気で変える”はずが・・・

1969年に入り、全共闘などが東大安田講堂を占拠したものの、機動隊に制圧されると、学生運動は次第に衰退していく。そのころ、吉野はみちよさんとともに混声合唱団を退団。学生生活に見切りをつけ「職業革命家」の道を突き進んでいった。

           

後に連合赤軍となっていく「革命左派」と呼ばれる過激派組織が誕生すると、吉野とみちよさんもその下部組織に入る。2人はアパートで事実上の結婚生活を送りながら、組織の幹部・坂口弘(死刑囚)の指示の元、工場労働者として働き始めた。

           

誕生したばかりの革命左派は主張として「反米愛国」を掲げた。組織の“旗揚げ”を示す実力闘争を展開しようと、9月、当時の愛知揆一外務大臣が「訪ソ訪米」するのを阻止する計画を立てる。それは空港の滑走路に侵入し、火炎瓶を飛行機に向けて投げ込むというものだった。

           

吉野は投獄を覚悟した実力闘争の「決死隊」のメンバーに選ばれる。坂口ら数名とともに、夜のうちに海を泳いで羽田空港の滑走路に侵入。離陸しようとする飛行機の前に火炎瓶を投げ込み、約20分間離陸を遅らせた。

           

警察による逮捕後も吉野は取り調べに対し、完全黙秘を貫いたとして、保釈後に組織内で評価され、革命左派の党員として昇格を認められることになる。

一方、みちよさんは逮捕された吉野の救援活動に奔走させられる。実はみちよさんは、吉野がこの闘争に参加するのに反対し、こう迫っていた。

「私と闘争とどっちが大切なの?」

詰め寄る彼女に吉野はこう答えた。

「闘争というものはどっちを選ぶというものではないと思う。もし将来、革命のために君を犠牲にしなければならないような状態に直面したら、僕は革命の方を選ぶ」

           

こうした姿勢が後に何をもたらすのか、当時の吉野は全く予想していなかった。

           

逃避行から「山岳ベース」へ

革命左派の活動は広く労働者に訴えるものから、次第に組織の内向きな方向へと変わっていった。

当時逮捕されていた組織の指導者を“奪還”するためには『銃の入手』が必要だと主張する指導部。下部メンバーに交番を襲撃して銃を奪うように命令するも、実行役のメンバーの1人が警察官に撃たれ死亡した。

その後、吉野も銃を入手するため、潜伏しての非合法活動を指示され、みちよさんとも離ればなれの生活を送ることになる。

1971年2月には、栃木県真岡市の銃砲店から銃を強奪し、この事件で吉野を含む革命左派の主要メンバー6人が全国に指名手配される。警察の捜査をかいくぐろうと、北海道へと逃避行が始まり、事実上、組織のトップについていた永田洋子(元死刑囚)と坂口弘は「海外亡命論」まで主張し始める。

そしてその年の5月下旬、永田は「山岳ベース」を拠点にして「銃を軸にした人民革命軍を作る」と主張し、メンバーらは奥多摩の山の中に小屋を設けた。

           

最初の“同志殺害”

銃を入手していた革命左派の指導部は、このころ同じく武装闘争路線を掲げていた「赤軍派」と接近する。労働者を中心として女性も多く、大衆運動を行ってきた革命左派と、学生を中心として軍事的な理論と行動を重んじる赤軍派とでは、主張も組織形態も異なっていた。

           

しかし両派とも指導者やメンバーの多くが相次いで逮捕され、組織が弱体化する中、1971年7月、両指導部は軍事的な連携強化を確認。事実上「連合赤軍」の結成がこのとき合意された。ただ、そこにはまだ確固たる理念も、統一された軍事組織もなかった。

           

一方、革命左派の山岳生活では、山での暮らしについて行けずに離脱するメンバーが現れる。最高指導者として永田洋子の権威が確立される中、権力側のスパイの疑いがあるとして離脱者2名の殺害計画が指導部で提案される。

この計画を伝えられた吉野は動揺を見せるも、任務として承諾して、以降は実行部隊として積極的な役割を果たしていく。

           

「印旛沼殺人事件」と呼ばれるこの事件は、組織にとっても吉野にとっても、初めてとなる“殺人”だった。2名の同志殺害のおよそ2か月後の10月、吉野は山から親友の大泉さんにこんな手紙を送っている。組織の論理にすっかり染まっていた。

           

“いよいよ日本の地にも本格的な遊撃戦争の時代が到来しましたネ・・・我々がかちとりつつある“鉄砲とせん滅の軍隊”人民革命軍による『銃』の遊撃戦こそが、今必要とされている緊急な重要な闘いであることを何よりよく示していると思います。人民が武装すること、このことを最もよく組織できるスローガンは『鉄砲を握れ!』であり、この『鉄砲』こそ軍隊の最も基本的な、欠かせない、最も重要な“せん滅”の武器であるからです”

           

「総括」の始まり

2つの組織の合流は凄惨な12人の同志殺しへと発展する。

山の閉ざされた空間でその事件は起きた。「総括」は当初、些細なことから始まった。

1971年12月4日、革命左派と赤軍派のメンバーは山のアジトで合流して「合同軍事訓練」として銃の射撃訓練を行っていた。そのとき、革命左派のメンバーが水筒を持参していないと、赤軍派から意識の低さを指摘する声があがった。

一方、革命左派の永田は赤軍派の女性メンバーが化粧をしていることや指輪をしていることについて「革命戦士としてふさわしくない」などと個人批判を行った。

           

赤軍派の最高指導者・森恒夫(逮捕後に自殺)はこの批判を深刻に受け止め、女性メンバーの問題は赤軍派全体の問題だとして、「彼女が総括できるまで山を降ろさない。山を降りるものは殺す」と宣言。

さらに、どんな状況でも権力と闘える、強い精神力を持った真の「革命戦士」になるためには、一人ひとりのメンバーがお互いを批判し合う中で、自らの“弱さ”や過去と決別しなければならないと主張。森はこれを「主体の共産主義化」と呼んだ。

           

「連合赤軍」の山岳ベースでは毎晩のように会議が開かれた。その中で、メンバーは上位の指導者からの「総括要求」を受けながら、自ら“弱さ”や“問題点”を次々に告白して自己批判した。

           

初めて総括に暴力が登場したのは、12月26日の夜から翌朝にかけてのことだった。総括要求されていた男性メンバーが、別の女性メンバーとキスをしていたことに、永田が「新党の場を汚された」ととがめた。

           

しばらく批判が続いた後、森はこの男性メンバーを殴るように指示。「共産主義化を勝ち取らせるため、新しい指導として殴る」と言って、暴力を同志が総括する「援助」であると位置づけた。指導部メンバーの中でも、吉野は率先して殴打した。

「まだ隠していることがあるだろう」

「総括しろ!」

下部メンバーも次第に同調し始めた。あわせて17人が暴行に加わる。約1時間半にわたり、70回から80回ほど顔面を殴り続け、男性メンバーの顔は2倍くらいに膨れ上がった。

           

連合赤軍の元兵士で、「総括」の場にも参加していた岩田平治さん(71)。指導部の指示のもと、他のメンバーを殴打することは必要なことだと思い込んでいたという。

           

元連合赤軍兵士・岩田平治さん:

「『総括』は、最初はわけがわからなかったのですが、幹部が殴っているうちに、本当に自分の中にある弱さをたたき出すためには、自分も殴らなければならないと思い、かなり積極的に殴ったんですよね。吉野さんなんかは、真面目にきっちりと上からの要求に応えて率先してやっていたと思います」

           

暴力的総括要求は、次々と他のメンバーにも及んだ。

初めての死者が出たのは12月31日。総括のきっかけは、23歳の男性メンバーが他のメンバーを殴るときに個人的な恨みで殴っていたと指摘されたことだった。

他のメンバーから殴られた上、「総括する態度ではない」として縛られた。食事も水もほとんど与えられなかった。「スイトン・・・」と食事を求めた発言が不適切だとして、さらに膝蹴りを受ける。縛られたまま絶命した。

           

メンバーに動揺が広がる中、森は男性の死を、革命戦士になりきれなかった「敗北死」と規定した。死は本人に責任があるとする論理を強調。他のメンバーもその規定に同調した。だが、総括を求められたメンバーが「総括」をやりきったと評価されることはなく、死者は1人、また1人と増えていく。

           

それに正面から異を唱える者はおらず、しばらく後になるまで逃げ出す者は1人もいなかった。

岩田さんは最初の一人が死亡したとき「死体を見張れ」と指示された。違和感を覚えると、指導部メンバーから「前にもこういうことがあった」と言われ、初めて印旛沼事件を知った。殺されていた同志は中高の同級生だった。

           

元連合赤軍兵士・岩田平治さん:

「革命を信じてきて、権力を倒すためには暴力や武力も必要だと思ったことは事実ですけど、仲間を殺すのはどうなのかなと。革命は正しく、指導者は論理的に間違っていないかもしれないけど、感覚的についていけないというのが実感でした」

           

一時下山して、カンパ集めなどの任務を与えられた岩田さんは、再び山へ戻ることはなかった。暴力の空間から、最初に逃げ出したメンバーだった。

           

上意下達の組織と“中間管理職”

「指導部の指示や命令は、もうこれは無条件に従うしかないという感じで、こんなことやっていていいのかなと違和感をもっていたけれど、『縛れ』と言われれば、『はい、わかりました』という感じでした。僕ら兵士は、もっぱら上意下達的な、上からの指示通りに行動することを求められていましたね」

           

リンチ殺人に加担し、懲役20年の刑で服役した元連合赤軍兵士の植垣康博さん(73)は当時の組織をこう振り返った。

1972年1月2日、赤軍派だった植垣さんは、他のメンバーより少し遅れて山岳ベースにやってきて驚いた。目の前で “同志”が殴られ、縛られている。「総括」で、すでに3人が死亡していた。

「こんなことをやっていていいのか?」そう赤軍派側の幹部に尋ねると、「党のためだから仕方ない」と言われた。

自分を納得させようとしたが、動揺は隠しきれなかったという。

           

赤軍派と革命左派が「連合赤軍」として合流し、共同で銃の射撃訓練をしてから1か月あまり。組織は新たな形で再編されつつあった。山に入ったメンバーは全部で29人。

植垣さんが到着したこの日、「連合赤軍」の指導部として7人の「中央委員」が選出された。

           

旧赤軍派の森恒夫が委員長に、旧革命左派の永田洋子が副委員長となり、この2人のトップが“独裁的な”地位を有していた。指導部の役割は、組織の方針を決めてそれ以外のメンバーである「兵士」を指示すること。上部からの命令は絶対の上意下達の組織だったという。

           

吉野は指導部の中に名を連ねたものの、その地位は最下位の7番目で、後の裁判では、自ら「総括」の命令を下したり、実際に方針を提起したりするほどの発言権はなかったと認定される。

           

元連合赤軍兵士・植垣康博さん:

「吉野は指導部の方針を、僕ら兵士に伝える存在だった。自ら考えて指導するというより、上位の指導部の指示通りに行動している人間だとみていました。会社でいうなら、中間管理職ですね。個人的な話はほとんどしませんでした」

           

森と永田のツートップを中心に「革命戦士」を育成するとして、下部メンバーには次々と総括要求が突きつけられた。その中では、家族関係や恋愛関係にあったメンバーが自己批判させられ、関係を引き裂かれていく。

           

兄を殴った未成年の弟たち。妻と子供を連れて入山し、リンチにあった夫。植垣さんもまた、好意を抱いていた女性メンバーを殴るよう命令され、自身にも総括が要求されていた。個人的な感情を振り払おうと、その意を決したときには彼女はすでに凍死していた。山での10番目の死者だった。

そして11人目の犠牲者となるのが、吉野の妻で当時妊娠8か月のみちよさんだった。

           

妻の死を容認した「心の歪み」

みちよさんの総括のきっかけは、「男を利用して組織での主導権を握ろうとしている」などと、永田に因縁をつけられたことだった。その総括要求が続く中、吉野はほとんど沈黙し、積極的に止めに入ることもなく周囲に同調していた。

           

指導部に批判的だったみちよさんに対し、森や永田の命令で暴行は次第にエスカレートした。氷点下の極寒の中、食事もろくに与えられず、放置されたみちよさんは2月4日、お腹の子とともに亡くなった。23歳の若さだった。

           

吉野は後に、刑務所の中で30年以上にわたり、事件を振り返る「省察文」を書き続けているが、そこにはみちよさんに対する後悔の念が記されている。

           

“私はこのように生きることを許されたものの中で、恐らく人間として最低、最悪の行動をとったものです(中略)自らの子供を身籠もり、八ヶ月まで育て上げてきた内妻、金子みちよを自ら死に至らしめたのです(中略)判決では、そうした一連の対応は、『もしそうしなければ、彼女とともに殺されることが確実な状況の中で、やむを得ずとった行動』として非難が回避されました。しかし私の先の行動は、そうした状況に迫られての受動的なものというよりは、みちよをかばったり同情したりしてはならない、という心の歪みでした”

           

組織における“個”の解体

吉野を始め、「連合赤軍」のメンバーたちが陥ってきた「心の歪み」は、特殊な時代背景の中での特殊な心理だろうか。元兵士の植垣さんは若い世代から当時のことを聞かれると、こう説明する。

           

元連合赤軍兵士・植垣康博さん:

「個を解体して、個人としての世界を解体していくのが、当時の総括要求だよね。そこに個性はないし、あってはならない。わかりやすくいうなら、“会社人間”と同じ。会社組織に忠実に行動するような個人で、人間関係や恋愛感情含めてすべてを会社に従属させることができる人間に変わっていかなければ駄目だと」

           

植垣さんがそう考えるようになったのは、刑務所から出た後、若い人たちが受けている学校教育や新入社員研修を見たときだったという。

組織の中での人間の心理状況だけでなく、「総括」の過程で暴力が果たした役割も、現代に通じるところがあると植垣さんは自戒する。

           

元連合赤軍兵士・植垣康博さん:

「暴力的な総括要求を考えていくと、極めて日本的というか、“しごき”の世界がある。しごきというのは単純に暴力だけが問題ではない。暴力が持ち込まれているか否かだけではなく、しごきの思想自体に問題がある。これは今でも同じようなことが起きていると思うよ」

           

その後、メンバーの逃亡や逮捕が相次ぐ。

そして 1972年2月19日、吉野を含む山に残った5人は警察に追い詰められる中、あさま山荘で管理人の妻を人質に取って立てこもることになる。

「あさま山荘事件」では、警察官と民間人あわせて3人が銃撃され死亡した。立てこもりのリーダー格だった坂口弘(75)は死刑が確定し拘置所に収容されている。幹部の坂東國男容疑者(75)は裁判の途中に、日本赤軍がクアラルンプールのアメリカ大使館を占拠した事件で釈放を要求し、日本政府の超法規的処置によって国外に逃亡した。いまも国際指名手配されている。

           

吉野は逮捕され、裁判の中で全面的に罪を認めた。裁判で死刑が求刑されたが、無期懲役が言い渡され、確定した。

           

あさま山荘事件から50年、吉野は今も刑務所で服役を続けている。
⇒https://www.nhk.jp/p/gendai/ts/WV5PLY8R43/blog/bl/pkEldmVQ6R/bp/pQo5VdwjXk/?cid=gendaihk-hp-220224

           

           

 

あさま山荘事件 “獄中”50年 無期懲役囚を揺さぶった裁判長の言葉。

1979年3月、日本中の注目が法廷に集まった。

社会を震撼させた「あさま山荘事件」の実行犯である「連合赤軍」元幹部に、初めて判決が宣告されるからだ。

           

元幹部・吉野雅邦(現在73歳)は、同志14人の命を奪った“リンチ殺人”に加担したなどとして、検察官から死刑を求刑されていた。犠牲者の中には、自らの子どもを身ごもった妻の金子みちよさん(享年23)も含まれた。

           

その日、裁判長は3時間近くにわたって、とつとつと判決理由を説明した上で、最後に主文を告げた。

結論は「無期懲役」。死刑ではなかった。そして、裁判長は吉野に直接語りかけた。

           

「被告人は生き続けて、その全存在をかけて罪を償ってほしい」

           

事件から50年、生きて償うことを課した裁判長の言葉を吉野はどう受け止めてきたのか。

           

親友が見た罪の意識の“変遷”

少年時代からの親友で、事件後も吉野と手紙のやりとりを続けてきた大泉康雄さん(73)は、吉野の罪の意識の変遷を見てきた。単に友人というだけでなく、出版社に勤めた経験から、彼の人間像を明らかにしようとしていた。

           

大泉さんに届いた手紙や手記などを見ていくと、吉野は「あさま山荘事件」で逮捕された後、約10年にわたる裁判の途中でその態度を大きく変えていることがわかる。

           

裁判が始まってからの数年間は、反権力意識を前面に押し出していた。その頃の手紙には「権力と闘う」といった内容の言葉が繰り返されている。

           

「この裁判所に、われわれの行動を裁く権利はない、裁けるのは人民だけだ」

(吉野の手紙より)

大泉康雄さん:

「吉野自身、判決は死刑じゃないかと思っていた時期がかなりあって、それで検事の取り調べに関しても素直じゃなかったことがあったと思いますが、訴訟指揮や裁判所で石丸さんとやり取りをしていくうちに、司法に対する信頼が膨らんできたんだと思います」

           

石丸裁判長との出会い

吉野ら「連合赤軍」メンバーの裁判を担当した最初の裁判長は、公判期日の間隔を短く設定するなどしたため、弁護団は準備ができないと抗議し、被告たちも出廷拒否の抵抗を見せた。

           

裁判が遅々として進まない中、事件から3年後に東京地方裁判所に赴任し、2人目の裁判長になったのが石丸俊彦さんだった。石丸裁判長は弁護団や被告に相談する時間を十分に与えるなど、これまでの裁判長とは異なった対応を見せたという。

新たな裁判長との出会いを、吉野は手記でこう振り返っている。

「石丸裁判長とも闘うつもりでいたのですが、先生の指揮に出会って、私の中で大きな思想転換が生じ始めたのです。この国では、不十分ながらも、基本的には民主主義原理が生き、実践されている。石丸先生がその実践者と思えたのです。それまでの、国家権力が不当に国民を支配しており、革命運動や反権力闘争は不可避かつ正義の行動、との認識が崩れていったのです」

           

吉野は法廷ですべての事実を明らかにして、どんな刑でも甘受するという姿勢に転じた。審理中、法廷で話が妻・みちよさんのことに及ぶと、吉野は泣き崩れてしまい、休廷する場面もあったという。

1979年3月の判決当日。石丸裁判長は主文を後回しし、先に理由を述べた。そして検察が求めた死刑ではなく無期懲役を言い渡した。石丸裁判長は吉野に語りかけた。

           

「法の名において生命を奪うようなことはしない。被告人は自らその生命を絶つことも、神の支えた生命であるから許さない。被告人は生き続けて、その全存在をかけて罪を償ってほしい」

           

700ページにわたる判決文には、緻密な事実認定がなされていた。事件から7年が経っていた。

検察は「刑が軽すぎる」と控訴したが、1983年2月、控訴審でも石丸判決の内容が支持され、吉野の無期懲役が確定した。

           

吉野は死刑を免れたが、判決確定後に大泉さんに宛てた手紙には、生きて償い続けることへの動揺が見られる。

           

「生きて償え、という判決を受けてみると、何かいっそのこと死刑判決の方が、気が楽であったのかも知れぬ(中略)やはり自分の義務として生涯にわたって事件・行動を振り返りつつ歩み、そこから学んだ教訓を自ら生かすとともに、広く明らかにしていかねばならない」

(吉野の手紙より)

           

石丸裁判長からかけられた言葉の最後の部分に、吉野は胸がつかえていた。

「君の金子みちよさんへの愛は真実のものであったと思う。 そのことを見つめ続け、彼女と子どもの冥福を祈り続けるように」

自ら死に追いやった女性に対して、“真実の愛”などありえるのか。

その言葉は絶えず吉野の中で反すうされることになる。

           

「君と社会で会えると信じています」

千葉刑務所で服役を始めた吉野は、まもなく筆を手にするようになる。なぜ自分は誤ったのか。事実関係や当時の自分の心理をもう一度見つめ直そう。自分の考えを文章にまとめようとしたのだ。

           

だが、思ったように進まなかった。

このころ吉野が刑務所の外部の人間に送った手紙はほとんど見つかっていない。当時、面会は家族などに制限され、親友の大泉さんも会うことや手紙のやりとりはできなかった。そうした中にあって、吉野の執筆する文章の送り先はなかった。

           

服役しておよそ10年の時が過ぎた1992年。吉野に転機が訪れる。

思いがけない人からの便りが届いた。更生に役立てて欲しいと、同封されていたのは1冊の聖書。そして、手紙にはこんな言葉がつづられていた。

“必ずやこの社会に復帰できますことを信じて祈っております”

差出人は、吉野の1審判決を言い渡した元裁判長、石丸俊彦さんだった。すでに退官し大学で法学を教えていた石丸さんは、ずっと吉野のことを気にかけていたという。

           

それ以降、2人は手紙のやりとりをするようになる。毎年の誕生日とクリスマスになると、石丸さんからは励ましのメッセージが届いた。

「満45歳の誕生日おめでとうございます」

「貴兄の日々を祈っています 勇気を出してください」

「明日に備えて生き続けてください」

「君と社会で会えると信じ、祈っています」

           

さらに石丸さんは吉野に愛用していた腕時計を贈った。

いつの日か社会復帰したあかつきには、これを身につけて新たな人生を歩んでほしいという願いからだった。

           

「皇国兵士」と「革命戦士」

なぜ、一裁判官が元被告をそこまで気にかけたのか。石丸さんの過去の体験に理由があった。

           

1924年生まれの石丸さん、少年時代から「腐敗した世の中を直したい」と正義感にあふれていた。1936年に、陸軍の青年将校らが武力によって体制転覆を目指した「二・二六事件」が起きると、その青年将校たちに憧れを抱き、16歳で陸軍予科士官学校に入学した。当時の日記にこうつづったという。

           

“私が軍人になろうとした真の目的は、端的に忠道の完徹にある。しかして、忠道を完徹しようとするなら、大元帥陛下(天皇)の威光のため自己を滅却して大義に立ち、喜んで死地に邁進する軍人こそ、日本臣民の最上の名誉ではないだろうか”

           

1944年に陸軍士官学校を卒業すると、歩兵部隊の少尉に任ぜられ、ビルマ(ミャンマー)の戦地に送られた。現地ではジャングルで敗走。帰国後、本土決戦要員として待機したが、そのまま終戦を迎えた。

           

1200人以上いた士官学校の同期生の約3分の2が戦死した。そして、玉音放送の際には上官の大隊長が、石丸さんの目の前で割腹自殺。その大隊長が最後に言い残したのは「諸君らは生きて、この国を立て直して欲しい」という言葉だった。

石丸さんはしばらく「空虚」になったというが、大隊長の言葉に報いようと法律家を目指した。そして終戦から約30年後、かつての「皇国兵士」は、「革命戦士」と称する青年に出会う。

           

「私は吉野君に自己を見ています」

親友の吉野のことを調べていた大泉さんの元に、石丸さんから届いた手紙。そこには、かつて大義を信じて疑わなかった青年が、戦争体験を経てたどり着いた境地が記されていた。

           

「私の願いは『平凡な万人の平凡な生』です。そのためにどんな弱者一人たりとも死んではならない、命を奪ってはならないということです。天皇ウルトラ信奉者だった私の願いです。『革命』はいかなるイデオロギー、哲学でもってしても、弱者には無用である。このことを私は先の戦争から学びました」

           

その後、石丸さんと吉野との手紙の交流は、石丸さんが2007年に82歳で亡くなるまで10年以上にわたって続いた。

           

“先生に報いるために”

石丸さんの訃報を新聞で目にした吉野は、一晩中何も手がつかなくなった。そのときの気持ちを大泉さんへの手紙で吐露している。

           

「全身を叩き潰されるような衝撃を受けました。私にとっては命の恩人とも言うべき先生ですし、存命中に、現在の立場と思いに立った事件への省察書をお送りせねばと思っていたので、その点、申し訳ない思いが一杯です」

           

石丸さんから課せられた“全存在をかけた償い”ができているのだろうか。

自問自答する吉野は、自らの罪に向き合うための文章を少しずつ書きためていく。

           

この頃には手紙が許可されていた親友の大泉さんの元に、その文章は送られた。限られた手紙の枚数の中にびっしりと書かれた文字。10年以上かけて、何度も何度も書き直した。

           

大泉康雄さん:

「後期になるにしたがって、罪の意識が重くなってきているというのは感じます。だから、裁判の最初の頃は森恒夫や永田洋子といった指導者のせいにしていたことに関しても、だんだん懺悔(ざんげ)の気持ちがわいてきたようです。実質的に殺したのは自分じゃないかという思いから、書くようになっていきました」

           

獄中の吉野の様子は…

かつて千葉刑務所に服役していた男性から、吉野の受刑生活の様子を聞くことができた。

男性:

「体の不自由な人の腕を抱えながら歩く姿は印象に残ります。すごくおとなしそうだけど真面目で、介護される方を一生懸命サポートされていたなと。車いすを押していたり、薬を塗ったり、おしめを替えたり…『ああ、そんなことまでするんだ』と、感心して見ていたことがあります」

           

石丸さんと吉野の交流が始まったのと同じ頃、この刑務所に「養護工場」が設置される。障害のある受刑者や高齢の受刑者がマーカーペンの組み立てなど、比較的簡単な刑務作業を行う場所だ。

しかし、それでも彼らの多くは何らかのサポートが必要で、トイレや風呂に1人で行くことが難しい者もいる。吉野は彼らの介護役を志願し、養護工場の担当者を任された。

以来、20年以上にわたりその担当を続けてきた。その心境を大泉さんに宛てた手紙にこうつづっている。

           

「人の命を軽視し奪ったことの償い、というのはあり得ませんが、せめてもの代償行為として、人の命を支え生かすことによって、自分の責務の一端を果たし得れば」

           

時が経過しても

事件から40年が過ぎた頃、吉野を取り巻く環境も大きく変化していった。

かつて、あさま山荘の前で息子に投降するよう呼びかけた両親は、息子の服役後もその帰る場所を守ろうと、実家で暮らしていた。父親は事件を機に会社をやめることを余儀なくされた。

その父親も10年前に亡くなった。母親は94歳で身体が動かなくなるまで、週の面会日には欠かさず息子の元に通い続け、刑務官の間で「水曜日の母」と呼ばれたという。2年前、99歳で息を引き取った。

いまは弁護士の古畑恒雄さん(89)が吉野の身元引受人となり、実家の管理なども引きうけている。

           

元検事の古畑さんは50年前、長野地方検察庁の公安事件担当で、軽井沢で逮捕された連合赤軍のメンバー4人を取り調べたこともある。そうした縁もあって、5年ほど前に吉野の世話を頼まれた。

検事や弁護士を長く務めてきた古畑さんは、吉野を支え続けた石丸元裁判長の姿に感銘を受けたという。吉野から預かった石丸さんのメッセージカードは、どれも「愛」という文字がつづられていた。更生の道を信じた石丸さんの意思を受け継ぎたいと、古畑さんは、罪に向き合おうとしている吉野を見守っている。

           

吉野の「償い」は届いているのだろうか。

あの冬からの50年、その長い時間を被害者遺族は苦悩の中で過ごしてきた。

妻・みちよさんの兄にメールで今の思いを寄せていただいた。

           

「実兄としての辛い気持ちよりも若くして命を絶たれた子を想いながら過酷な晩年を過ごし重い心の負担を負いながら世を去っていった両親いかばかりかと思っております。

自分としてもこのような妹を事前に救い出せる手立てがなかったのかという若き日への後悔と自分への呵責にさいなまれてきました。

吉野受刑者とみちよの関係もご承知とは思いますが守るべき人間を守らずあの残酷な死に追いやった人間として今でも最悪で許さざるの人間であるとの認識はかわりません」

           

“真実の愛”とは

去年10月、73歳となった吉野は刑務所内で突然倒れた。40度近い高熱にうなされ、生死の境をさまよい「自分はもうここまでかもしれない」と死を強く意識したという。医療刑務所に移送され、一命はとりとめたが、人生の終焉が近づいているのを感じた吉野は病床で1つの文章を書きあげた。

タイトルは「<随想>故石丸俊彦先生への報恩について」。その長さは400字詰めの原稿用紙86枚に及んだ。50年目の手記は古畑さんに託された。

           

なぜ自分は間違ってしまったのか、そこには吉野のいまの答えがつづられていた。

「とくに痛感したのは、私たちが“革命を目指した”ことの愚かさです。人々に幸せをもたらす、いわば打出の小槌(こづち)のようなものと捉えていました」

弱者の命を奪うような戦争や革命の大義は不要だ。かつてそう説いた石丸さんの信念が、吉野の手記にも反映されていた。

           

「社会を変え得るのは、決して人々の“怒り”の行動や“勇気ある少数者の突出した行動”などではなく、声を発し得ない民の心の底からの願いであり、祈りなのではないか(中略)人を変え得るのは、力ではなく、本人への愛情を込めた説諭による他ない、と思えるのです。そうです。石丸先生が、自ら身をもって実践されたように」

           

石丸さんが吉野を諭すときにいつも書いていた、「愛」についても言及している。

「自分が“愛すること”について、否定的な捉え方をしていたことに気付きます。愛情そのものを、利己的な感情の如くみなして、家族や友人関係もすべて、昇華-淘汰さるべき個人的関係であるかのような考え方にとらわれていたのです。

人を愛するためにまず必要なのは、自分の存在を肯定的に捉え、自分の足でしっかりと立ち歩む姿勢を保つことではないか、と思えます。かつての私のように、自分を疎かにし、他人や組織に従属し、自分を失うような状態では、人を対等な人格として尊重できず、相手の立場や心情を思いやることはできない」

           

そして、石丸さんが法廷で語りかけたあの言葉。

「君の金子みちよへの愛は真実だったと思う」

           

自らの妻と子を死に至らしめた吉野は、自分の向き合い方に「愛」があったとは思えなかった。“真実の愛”という言葉の重さに耐えられなかった。

吉野は手記でその真意を捉え返す。

「私は今、あるいは石丸先生も、それを十分承知された上で、尚、“真実なものであった”と言われたのではないか、と思い直しています。

残生の“全存在をかけて償うこと、彼女らの冥福を祈り続けること”それによって彼女への愛が真実であったことを証明しなさい。そう説示されたのではないか」

「愛が真実であった」という言葉は、過去の行動に向けられたものではなく、未来の更生と贖罪(しょくざい)のためにこそ、石丸さんは語りかけたのではないか。

           

吉野の、50年目の“気づき”だった。

そして今日も刑務所の中で、終わり得ぬ省察を続けている。

           

今回、吉野受刑者とは手紙のやりとりを重ねました。その手紙の中で印象に残った一節は、リンチ殺人の起きていた山の中から逃げ出したメンバー(有期刑で服役後に社会復帰)と、そうしなかった吉野受刑者との違いは何だったのか尋ねたときの答えでした。

           

「一番の違いは、私の場合、離脱後の生きる場所が見出せなかった点だったと思い得ます。
この社会は、障害者、底辺労働者やアジア民衆の犠牲の上に成り立っている、
その社会に順応していき、
市民的生活を送ることは、
犯罪的で許されない。

その思いから、いわば組織に身を託し、しがみついていた状態だった、といえます。
結局、私にとっての生きる場所は、あの山の中か、監獄(社会的死を意味する場)しかない状況ではなかったか、と思えてなりません」

           

私には吉野受刑者の「生きる場所」は他にあったのではないかと思えてなりません。
それは彼の両親や親友、そして妻・みちよさんが、提示していたものだと思います。
かつての吉野受刑者の行動は、一見すると“強い意志をもつ個”を求めているようで、
実は目の前にいる大きな存在に従属、安住し、
自分で考えることを放棄していて、“個の解体“につながるもののように感じました。

           

吉野受刑者の半生を見てきたとき、償いようのない大罪に、
あえて「生き続けて償え」と諭した石丸元裁判長の言葉は、
今の時代を生きる私たちにも自主自立の心を保ち続けることの大切さを語りかけているように思います。
⇒https://www.nhk.jp/p/gendai/ts/WV5PLY8R43/blog/bl/pkEldmVQ6R/bp/pVB8n9G9Eg/

           

           

           

 

刑務所 出所者支援 一覧。

S S S は無料低額宿泊所の一部を自立準備ホームとして登録し、行先のない刑余者 ( 刑務所・拘置所出所者等 ) の受け入れをしています。
⇒https://www.npo-sss.or.jp/activity/ex_convict/

⇒刑務所支援の求人 | Indeed (インディード)

⇒「刑務所出所者等就労支援事業」と協力雇用主に対する支援制度

出所者支援ハンドブック
⇒https://www.junposha.com/book/b598669.html

【出所者の社会復帰】2人に1人が刑務所に戻る理由
⇒https://journal.ridilover.jp/topics/19

NPO法人マザーハウス 受刑者・元受刑者の社会復帰支援を行う団体です。
⇒https://motherhouse-jp.org/

福祉の支援が必要な刑務所出所者の現状
⇒https://www.mhlw.go.jp/bunya/seikatsuhogo/dl/kyouseishisetsu02.pdf

再犯防止のための刑務所出所者等の社会復帰支援事業の維持・強化(社会内処遇)
⇒https://www5.cao.go.jp/npc/pdf/houmusyou.pdf

刑務所出所者等総合的就労支援対策 厚生労働省
⇒https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_14830.html

刑務所出所者等の社会復帰支援
⇒https://www.moj.go.jp/content/000103413.pdf

行き場のない刑務所出所者等の住居の確保~更生保護施設等の役割~
⇒https://www.moj.go.jp/hogo1/soumu/hogo02_00029.html

           

           

 

ストリートディベートの支援団体への普及活動一覧。

スープの会
【連絡先】
「スープの会」公式ホームページ
⇒http://www1.odn.ne.jp/soup1994/soup/supuno_hui_biao_zhi.html

電話:090-4009-4719
メール:soup1994@pop06.odn.ne.jp   2022・2・25

自立生活サポートセンター・もやい
【連絡先】
住所:〒162-0801 新宿区山吹町362 みどりビル2階
電話:03-6265-0137
(火曜日 12-18 時・金曜日 11-17 時)
※面談による相談は火曜日のみです
ホームページ:⇒https://www.npomoyai.or.jp/

E-mail: info@npomoyai.or.jp   2022・2・24

新宿ごはんプラス
【連絡先】
公式Twitter、Facebookページにダイレクト・メッセージをお願いします。
お問合せフォーム:⇒http://gohanplus.org/inquiry/
   2022・2・23

四ツ谷おにぎり仲間
【連絡先】
電話:080-7967-8672(連絡可能時間:毎週土曜日15時~18時)
ホームページ:⇒http://onigiri-nakama.sakura.ne.jp/

お問い合わせ:takahashisa16@yahoo.co.jp   2022・2・22

のじれん(渋谷・野宿者の生存と生活をかちとる自由連合)
【連絡先】
電話:03-3409-5525
メール:nojiren@live.jp   2022・2・20
公式Twitterアカウントにダイレクト・メッセージをお願いします。
※お急ぎの場合はメールにてご連絡ください
住所:〒150-0011 渋谷区東1-27-8-202
ホームページ:⇒https://nojiren.wixsite.com/index

TENOHASI(てのはし)
【連絡先】
メール:tenohasi@yahoo.co.jp   2022・2・19
電話:090-1611-1970(清野)
※平日は18:00以降でお願いします。
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Twitter:⇒@tenohasi

あじいる
【連絡先】
電話:070-5542-9831
住所:〒 116-0014 荒川区東日暮里 1-36-10 企業組合あうん気付一般社団法人あじいる
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メール:sumida_iryo@yahoo.co.jp   2022・2・18

自立支援センター・ふるさとの会
【連絡先】
電話:03-5824-0553(月・火・木・金曜日11時~13時半)
住所:〒111-0021 台東区日本堤1-11-7 1F
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メール:info@hurusatonokai.jp   2022・2・17

足立野宿者支援の会さくら
【連絡先】
メール:arakawa.adachi.sakura@gmail.com   2022・2・16
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   2022・2・16
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お問い合わせ
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  2022・2・16

ほしのいえ
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ひとさじの会
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ホームページ:⇒http://hitosaji.jp/

セカンドハーベスト・ジャパン
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住所:〒111-0053 台東区浅草橋4-5-1 水田ビル1F
ホームページ:⇒http://2hj.org/

お問い合わせ:⇒http://2hj.org/contact/
  2022・2・13

山友会
電話:03-3874-1269 FAX:03-3874-1332
メール:⇒info@sanyukai.or.jp

住所:〒111-0022 東京都台東区清川 2-32-8
ホームページ:⇒http://sanyukai.or.jp
  2022・2・11

山谷夜回りの会
メール:⇒yomawari@infoseek.jp

ホームページ:⇒http://yomawari.yomibitoshirazu.com/
  2022・2・10

山谷労働者福祉会館活動委員会
電話・FAX:03-3876-7073
メール:sanya@riseup.net  2022・2・9
住所:〒111-0021 台東区日本堤 1-25-11
⇒Twitter:https://twitter.com/sanyadesu
  2022・2・9

一般社団法人 生活困窮者自立支援全国ネットワーク お問い合わせ
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 2022・2・6

協同労働
⇒https://jwcu.coop/about/assoc_cooperative/

立ち上げプロセス一覧
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お問い合わせ
⇒https://jwcu.coop/#last_row

⇒rngukism@roukyou.gr.jp
 2022・2・6

POSSEは若者の「働くこと」に関する 様々な問題に取り組むNPO法人です
⇒https://www.npoposse.jp/

NPO法人POSSEへのお問い合わせや講演、取材のご依頼などは、メールもしくは下記フォームより受け付けています。
⇒https://www.npoposse.jp/inquiry
 2022・2・6 

反貧困ネットワーク
⇒https://hanhinkonnetwork.org/

新型コロナの影響で、お困りの方からのご相談を受け付けています
⇒https://kinkyusos.jp/

反貧困ネットワークへのお問い合わせ
⇒https://hanhinkonnetwork.org/contact#information
 2022・2・6 

           

           

 

まず初めに手に入れたいもの。

・ストリートディベーターは路上で問題提起をし、硬貨の重さによって世論を可視化する職業である。
これは、路上での「ものごい」に代わる行為でもあり、自尊心を損なわずにお金を稼ぐことができる。
⇒https://www.ka2.link/taiken/giron/#.6

・緊急お助けパック
⇒https://ie-shigoto.jp/news/2442/

『路上脱出・生活SOSガイド』東京23区編
⇒https://bigissue.or.jp/wp-content/uploads/2021/01/tokyo_guide2020.pdf

           

           

 

炊き出し情報一覧。

炊き出しマップ
⇒https://seikatu-shien.net/takidashi/

東京23区の民間支援団体
⇒https://bigissue.or.jp/action/guide/tokyo_takidashi/

東京都23区内の行政による衣服・食料・交通費などの応急援護内容
⇒https://bigissue.or.jp/action/guide/tokyo_gyosei/

都内近郊の炊き出し情報
⇒http://seikatsuhogoguide.com/takidashi/

⇒東京炊き出し&軽食提供情報

東京都内の曜日別:炊き出し情報まとめ
⇒https://suna-gimo.com/takidashi-tokyo/#toc2

【2021年版】東京23区内の最新炊き出し情報、完全まとめ!【食事内容】
⇒https://tokyo-reporter.com/takidashi-23wards/

食べものがないとき:大阪の炊き出し情報
⇒https://bigissue.or.jp/action/guide/osaka_takidashi/

炊き出し一覧 大阪
⇒https://www.faq.or.jp/q_a/qa/food.html

           

           

フードバンク。

フードバンクから食品を受け取るには  全国のフードバンクまとめ
⇒https://www.baitoru.com/contents/list/detail/id=2462

食品受入能力向上緊急支援事業(フードバンク支援事業)
⇒https://www.maff.go.jp/j/shokusan/recycle/syoku_loss/foodbank.html

           

           

子ども食堂。

「子ども食堂ネットワーク」
地域を選択すると、各エリアのこども食堂一覧が表示されます。
⇒http://kodomoshokudou-network.com/

           

           

DV(ドメスティックバイオレンス)シェルター。

⇒全国母子生活支援施設協議会 宿泊施設の一覧
住宅のない要保護者の世帯に対して、住宅を提供するための施設で、家族用と単身者用とがあります。

           

           

住居。

⇒宿所提供施設 宿泊施設の一覧
住宅のない要保護者の世帯に対して、住宅を提供するための施設で、家族用と単身者用とがあります。

⇒・東京 激安 ネット カフェ 一覧。

住居確保等の無料の相談会

TOKYOチャレンジネットは、仕事はしているが住まいがない方に3ヵ月間住まいを提供して、安定した住まいや仕事を探すサポートをする制度です。必要に応じて住宅資金や生活資金の無利子での貸付もあります。
⇒https://bigissue.or.jp/action/guide/tokyo_housing/

住居確保給付金相談コールセンター
⇒https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_11371.html

東京都福祉保健局 の中の 生活の福祉 の中の 生活・居住・就労支援の総合案内 の中の 住まいに困っている
⇒https://www.fukushihoken.metro.tokyo.lg.jp/seikatsu/seikatsu_kyoju_shuro/sumai.html

           

           

相談窓口。

⇒自立相談支援機関 相談窓口一覧

東京都 自立相談支援機関相談窓口一覧
⇒https://www.jpm.jp/hoshou/consult/list.php?cid=14

⇒自立相談支援機関 問い合わせ先等一覧

就職や住まい、家計管理などの困りごとや不安を抱えている方は、
まず地域の相談窓口に相談してください。
どのような支援が必要か、支援員が一緒に考えます。具体的なプランを作成し、寄り添いながら、自立に向けて支援します。
⇒https://minna-tunagaru.jp/know/jiritusoudan/

生活にお困りの方を支援する相談窓口の一覧はこちらです。(生活困窮者自立相談支援機関)
⇒http://www.pref.kanagawa.jp/docs/r6w/cnt/f533087/

支援機関や相談窓口などの一覧
⇒https://shourainoyume.jp/support.html

くらし・しごと相談支援センター  豊島区
⇒https://www.city.toshima.lg.jp/164/kenko/sekatsu/032834.html

生活支援相談窓口 新宿区
⇒https://www.city.shinjuku.lg.jp/fukushi/fukushi01_002056.html

収入が減少し 生活に困窮する方へ
⇒https://corona-support.mhlw.go.jp/

生活にお困りの方へ
仕事と同時に住まいを失った
手持ちの現金が少なくなり泊まる場所がない
今はなんとかやりくりしているが、体を壊したら路上に出るしかない
ネットカフェや路上での生活から脱出したくてもできない
上記のような方へ生活上でのお困りごとを解決するための情報をお届けしています。
⇒https://bigissue.or.jp/message/

特定非営利活動法人 TENOHASI
いま様々な事情で家がない暮らしをしている皆さんのための実践“脱・ホームレス”ガイド
「若いから・元気だから・家族に連絡されるから、
役所の支援は受けられない、生活保護なんて無理」と
誤解している人のために、ガイドを作成しました。もちろん受けずに済めば一番ですが。
⇒https://tenohasi.org/consultation/guide/

           

           

支援団体の一覧。

⇒炊き出し・夜回り・パトロール・シェルター・医療、生活相談など生活困窮者・路上生活者の方々に寄り添い、現場支援の活動をしている団体の一覧です。

アルバイト・パート・派遣社員・契約社員などの有期雇用労働者で、新型コロナウイルス感染により欠勤を余儀なくされた方に、新型コロナウイルスに感染した場合の治療期間として必要といわれる半月分の収入相当額を支給します(上限10万円)
⇒https://www.baitoru.com/pdt/shien2020/

           

           

行動 一覧。

ストリートディベート でやってること。

いじめられちゃうのは憎しみを使わないから。
 
イエス  ノー  どっち?
あなたの意見を聞かせてください。
⇒https://www.ka2.link/dansu/kunren-29/

           

乞食社長。
・路上ライブで恵んでもらう。 内容 歌、「乞食です、お恵みください」を繰り返す。小話、小芝居、
・ライブ配信で恵んでもらう。 内容 歌、訓練、「乞食です、お恵みください」を繰り返す。小話、小芝居、
・乞食を自営業としてブランディングして「クラウドファンディング」という名目で恵んでもらう。
・アフィリエイトで商品を買ってもらって恵んでもらう。
・食品ロス削減という名目で「自己責任誓約書」を用意して飛び込み営業で 売れ残り、廃棄食品を恵んでもらう。
⇒https://rreey.xyz/suki/tomodati/

           

「タダ飯を食べる方法」お腹を満たしつつお金を浮かせよう!
⇒https://www.infotop.jp/click.php?aid=261674&iid=93382

           

           

           

クリック出来ます。

           

           

           

           

           

「ものごい」の代替手段 : ストリートディベーターという職業が、路上生活者を社会復帰に導く。

ストリートディベーターは路上で問題提起をし、硬貨の重さによって世論を可視化する職業である。
これは、路上での「ものごい」に代わる行為でもあり、自尊心を損なわずにお金を稼ぐことができる。

           

           

1、たとえば、「ベーシックインカム — 賛成/ 反対」という質問が書かれたボードを準備し、
それに対する2つの回答を書き込める天秤型のツールを使って、通りすがりの人々に投票を呼びかける。

2、ディベートを通して天秤の皿にお金が“投票”されることで、世論がその傾きとして提示される。
道ゆく人と友好的な対話を通じて、路上生活者の自尊心を守り、社会とのつながりを取り戻すことを目指している。

           

           

さまざまな背景をもつ人々が顔を合わせ、意見を交換する場を都市のなかにつくり、社会の思想的な分断を防ぐ狙いもある。

市民が自分たちが出来る範囲で状況をよくしようと、
絶えず変化する問題に向き合う試みこそが社会をよりよい方向へ変えられると、わたしは信じている。

           

           

今日も世界のどこかの路上でストリートディベーターたちが、問いと対話を巻き起こしている。
見かけたらぜひとも参加してほしい。

           

           

           

FAQ

Q.どうやったらストリートディベーターになれるのか?

A.社会に問いたいことがあれば、誰もがストリート・ディベーターになることができます。

1つ以上のコップを用意し、ダンボールに問いを書いて路上に立つだけで、
簡易的なストリートディベートを始めることができます。
私たちが使ったような天秤型のプロダクトを使うのも効果的です。

           

           

Q.ストリートディベーターの手法が広く行き渡って一般化された場合、
この手法の特別さは失われてしまうのではないか?結局また差別されるのではないか?

A.このプロジェクトのスタートは、ネガティヴな物乞いの行為に、何らかの代替行為(オルタナティブ)を探ることでした。
結果として、新たな手法が生まれ、これまでになかった対話の状況が生み出されています。

少なくとも、路上でお金を乞うだけの物乞いの現在の負の状況から、
通りすがりの人に意見を求め、対話が発生するような状況に変化することは健全だと思います。

また、ストリートディベートは路上生活者だけでなく、
あらゆる社会階層の人が参加できるかたちに開かれていることで、差別が起こらない状態を目指せるのではと考えています。

           

           

Q.路上で物乞いをする人にお金を与えることは、
彼らの多くが依存しているドラッグやアルコールを買うことに繋がるから、辞めたほうがいいのではないか?

A.この問題については現地のソーシャルワーカーの方とも議論しながら慎重に進めています。
私は対話を通してその人が薬物依存者なのかが、ある程度分かると思っています。

また、お金を渡さなくても、常に対話が発生するような状況が、
彼らが薬物依存に陥る原因となりうる尊厳の低下と社会からの孤立を防げると思っています。
⇒https://kkeeii.link/douga/syea-10/#5

↑↑ストリートディベート。へ

           

           

           

           

 

原爆はなぜ落とされたか? カネのためなんだ。

 国家の詐術を、アメリカによる原爆投下にみる。

原爆はなぜ落とされたか。それも二つも。
公式にはアメりカ兵の被害を少なくするためとされている。しかし、それはウソだ。

当時の日本に連合艦隊はなく、兵器を作る工場もない。
米軍幹部は大統領に原爆投下の必要はないと進言もしていた。

投下の主な理由は二つあるという。

一つは、原爆開発の膨大な予算を出した議会に対し、原爆の効果を示したかったから。
つまりカネのためなんだ。

2個の原爆は種類が異なっていた。
二つとも落として科学的に確かめようというのが第2の理由。

人間のつくる科学には残虐性が含まれているんだ。

このウソをアメリカ政府はいつまでつき続けるのか、と問う。
アメリカという国家がなくなるまででしょう。

いちどきに何十万もの人を殺す原爆ができて、国家はより有害なものになった、という。
日本はそのことにいまだに気づかず、
世界一の金持国である米国の懐に抱かれてしまい、安心しちゃっている。すさまじいことですよ。
⇒http://www.ibaraisikai.or.jp/information/iitaihoudai/houdai37.html

           

 

           

           

 

           

           

           

           

           

 

     

飄々主義(憎しみと同情を使い分ける)。

もともと備わってる機能だから使う気になれば易々使える。

易々使えるのは 使うことが不快ではなく 快感だからだ。

憎しみは脳内で「目の前に達成感がある」といった感覚を生み出している。
⇒https://www.uuooy.xyz/kitui/hyouhyou-2/#2….

脳科学的には、人間にとっての一番の幸せは、苦しんでいる人を救うことなのです。
⇒https://www.uuooy.xyz/kitui/hyouhyou-2/#8

           

           

・憎しみを使う。 →どう使うか?  常識、差別、偏見、批判、理不尽、不条理を憎む。

           

溜め込んでいる怒りを吐き出してもらうことで、必ずうつ病は改善していきます。
⇒https://www.uuooy.xyz/kitui/hyouhyou-2/#0.

憎しみは 威圧感も、よく思われたいも飛び越えて この野郎 と向かっていける。コミュ障、人見知りから解放してくれる。

憎しみは屈辱を与えてくる相手に何しやがるこの野郎 と向かっていける。屈辱から解放してくれる。

憎しみは人間関係を気にする相手に何言ってんだこの野郎 と向かっていける。人間関係から解放してくれる。

憎しみは世間体を気にする相手に何言ってんだこの野郎 と向かっていける。世間体から解放してくれる。

憎しみは恐怖を与えてくる相手に何しやがるこの野郎 と向かっていける。恐怖から解放してくれる。

憎しみは偏見をもった相手に何しやがるこの野郎 と向かっていける。偏見から解放してくれる。

憎しみは差別してくる相手に何しやがるこの野郎 と向かっていける。差別から解放してくれる。

           

           

・同情を使う。 →どう使うか?  自分の境遇に同情する。自分の体の機能に同情する。

           

  

主観から客観に切り替える。

いやだ。じゃなくて →かわいそう。
キツイ、辛い。じゃなくて →痛みを発してる気管、機能がかわいそう。

苦しいのは 何処が かわいそうな目にあってるのか 見つけていく。

かわいそうのえこひいきがないように
かわいそうの洩れがないように
かわいそうを探っていく。
 →のどがかわいそう。 →首がかわいそう。 →肺がかわいそう。 →横隔膜がかわいそう。
⇒https://www.uuooy.xyz/kitui/hyouhyou-2/#.

↑↑苦しみに耐えられないのは同情を使えてないから。 

           

同情  →自分の一部 自分の分身 という認識をすること。

           

アフガニスタン が自分の一部 自分の分身 という認識をする。

ミャンマー が自分の一部 自分の分身 という認識をする。 

難民  が自分の一部 自分の分身 という認識をする。 

性被害者  が自分の一部 自分の分身 という認識をする。 

障害者 が自分の一部 自分の分身 という認識をする。 

地球  が自分の一部 自分の分身 という認識をする。 

いきもの  が自分の一部 自分の分身 という認識をする。
⇒https://kkeeii.link/douga/kazoku/#g.

           

           

🍑 2つの結末をできるだけ先送りして続けたい。
① 力尽きて野垂れ死ぬ。
② 迫害されて抹殺される。

ストリートディベートをやる、普及するという行動を利用して
憎しみと同情の使い分けを理解し合うのが
救世主の仕事です。
⇒https://www.ka2.link/taiken/giron/#i.

✅救世主の仕事を支援してください。

「技術を習得して 操れる快感を得られる」商品の一覧を作りました。

支援することであなたが得られるもの。

・人生のターニングポイントになる技術が身につく。
・この活動が広まるとあなたの周りにお節介焼きが増える。
・あなたがグータラしてるとお裾分けをどんどん持ってこられる。
・あなたが野垂れ死にしそうになって 気が付いたら看病されている。
・あなたがクマに襲われたら飛び込んでくる人が現れる(助けられるか共倒れするかは状況による)。

↓↓ここから支援していただけたら幸いです。
https://oioiuu.xyz/sinka/gizyutu/

↓↓苦しみや悩みを解決する一覧はこちら。
https://kkeeii.link/douga/nayami/

↓↓デジタルからの収入を助ける一覧。デジタルからの収入に必要な情報一覧。
https://www.ka2.link/taiken/afirieito-40/

↓↓生まれついての性被害者だけど楽しくやってます。
https://ddggi.xyz/dasu/sei/

           

           

ブッダ、キリストからのリレー。

ブッダもキリストも果たせなかった
人類の救済をやっているんです。

それが飄々主義なんです。
憎しみと同情の使い分けを理解するってことです。

それが人類の救済って どういうことって思いますか?

飄々主義を日々テーマごとに語ります。

1日目 いじめられちゃうのは憎しみを使わないから?

2日目 怒り、憎しみは快感? 手軽な娯楽?

3日目 鬱やひきこもりになっちゃうのは怒り、憎しみを使わないから?

4日目 憎しみをちゃんと使えてないのが勇気?
    行動力って憎しみのこと?

5日目 苦しみに耐えられないのは かわいそうを探さないから?
⇒https://www.uuooy.xyz/kitui/forums/topic/keiziban-31/#post-6011

           

           

           

           

✅⑤あなたはこれから何をすべきか?

           

↓↓↓今すぐ見てください。あなたの人生(またはあなたの大切な人の人生)がかかっているかもしれません。

⇒🅾エクスポージャー療法。その1.

⇒🅾エクスポージャー療法。その2.

⇒✅エクスポージャー療法を好きなだけ見るコツ。

⇒生き方の助け、生活の向上になるコンテンツ。

           

           

           

           

           

           

✅人間にもともと備わっているある機能を利用すれば
飄々と困難や苦手な相手でもあっさり向かっていけるようになります。

・異性とのコミュニケーション、
・困難に思える事業、
・生きるか死ぬかの状況。

⇒何でも来いってなります。

           

✅地球上には自殺したいほど苦しい状況 が溢れています。

⇒🅾状況を変えられないのなら適応しちゃえばいい。

           

           

           

           

           

           

           

           

           

以上
刑務所出所者、前科者を助ける一覧。刑務所出所者、前科者に必要な情報一覧。

           

           

           

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